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プロフィール

「全体」がある。

「気づき」後は、恩寵に満ちる。

静寂・生命・よろこびに満ちる。

 

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茂藤かおり(もとう かおり)。
熊本市在住。


今は夫と2人暮らし。
長女(30才)長男(28才)はそれぞれ結婚し、それぞれ、韓国と、東京に在住。

日常そのものが趣味・・お茶、人と会う、掃除、ぶらぶら散策とか好きです。

日本交流分析学会会員
米国催眠士協会認定セラピスト
米国催眠療法協会認定ヒプノトレーナー
JAA認定 アロマインストラクター
TCカラー・マスターセラピスト
栄養医学指導師

これらを取得して、15年間ほど心理カウンセラーとして活動をしていました。

ですが、「全体性」を真に認めてからは、「個人」「個体性」の向上や、「形の世界」の問題を解決するための活動からは退きました。

「個人」が、「本当のわたし」を遠ざけていたのだと気づいたからです。

今は、"今ここ"の恩寵に満ちていることに気づき続るのみ。

 

開き、受け入れ、受け取り続けるのみです。


物心ついたときから、生き辛く、苦しかったです。

不確かな世界で生きることに絶望していました。

外の世界に意識を向けることは苦痛でした。

行きもできない、戻りもできないのが苦しく、宙ぶらりんでした。

すべてから拒絶されている感覚があり、孤独でした。

・・

でも、これが自我の働き、自我の世界だったのです。

そもそも実体のない“自我”の働きが見抜かれると、“今ここ”という至福が流れ込んできました。


これまでの体験のすべてが「全体」へと目覚める機会だったのです。

今、どこにも行く必要のない”今ここ”の静かな喜びの中です。

・・・・・・

(気づきに至るまでのプロセス。)

幼少期から、争いの絶えない家族、虚弱な身体、不自然で理不尽に見える世界に「絶望」し、「苦しみ」を感じて鬱々と過ごしてきました。

大人たちはいつも怒ったり、嘆き怯えたり、競争したりしていて、「なんなの、この世界は」と早々に絶望していました。

 

心の中に微かなときめきが湧いても、すぐに外の世界、不安定な大人たちに打ち消されてしまいました。

とにかく、この物質世界で生きることに違和感、居心地の悪さ、所在なさ、がありました。

「真実」に飢えていました。


小学1年生のとき、“「身体」が自分じゃない”という一瞥体験があり、それからは、よりはっきりと“見えないけど、確かなもの”を求めていました。

“心の奥のどこか別の領域”には、いつも清々しさがありましたが、それはすぐに、この絶望的な“形の世界”によってかき消されました。

その後、高校生のときに「聖書」の中のイエスキリストに出会いました。

それからは、イエスの存在が、心の唯一のよりどころでした。

イエスの存在から感じるゆるぎなさ、真摯さ、あたたかさ、清々しさ、そして懐かしくて深い安心の在り様だけが、わたしの希望の光でした。

ですが、イエスが指し示す三位一体の「神」の確信には至っていませんでした。

ただイエスの在るところが「戻る場所」だと感じていました。

 

この物質世界とは別のところに“真実”があるんだろうなと漠然と感じていましたが、それには「死ぬしかない」のかな?と思い込んでいましたし、生きたままその境地にいくのは不可能だと信じ込んでいました。

・・・

心に”真実”を感じていても、この世界においては絶望したままでした。

鬱々と日々を過ごし、辛うじて、某会社の会社員として過ごしていたある日、会社帰りに酷い台風の直撃に出くわし、死の恐怖と「身体」であることの不自由さに、大きな怒りがこみ上げました。


「もうこんな恐ろしくて狂っているところはマジ懲り懲り!真実を知りたい!心の中にある神(?)に従って生きていく!」と”真実”に向く決心をしました。

それからは常に自分の「内側」に向き、意識し、問いかけ、そして、イエスに感じている「確かさ」と共鳴している「自分の内側」を羅針盤にして生きるようになりました。

このコミットが、「わたしの内側」=「全体性」だとは気づけなくて、「ただそうする以外できない」という素直な直感に従っていました。

それでも、「内側」の清々しい部分のままでこの物質世界と完全に関わる勇気はなく、また、物質世界に期待もあり、裁きもあり、葛藤もありで、居心地の悪さは続いていました。

その後、さらに何もかもが虚しくなり、社会全体への違和感が増し、会社をやめ、当時お付き合いしていた不安定な関係の男性とも別れ、なんにもなくなりました。

また、その頃は、両親も離婚したり、金銭トラブルがあったりと、何もかもが最悪でした。

それでも、なぜかピンときた“伊勢神宮”での、夜通し祈るという神道のイベントに参加しました。

(この当時はまだ混乱していて、何か“する”ことに意義があるとか、“場所”に力がある、”この世界を変えられる”というふうに思っていました。)

伊勢神宮で、「神様、本当の道を教えてください」と必死に祈りました。

それから数か月後に、夫と出会いました。
なぜか「この人と結婚する」と直感しました。

何度か会うようになった頃、住んでいたアパートの部屋で不思議なボヤが起き、その部屋に住めなくなりました。たまたま掛け捨ての火災保険に入っていて保証がおり、また、ボヤ騒動を助けてくれた夫と住む話になり、あれよという間に結婚に至りました。

娘と息子が生まれました。

「家族」ができたことで、孤独やむなしさや、焦りなどは緩和しました。

ですが、ここからが、“真実”へ道の本番だったのです。

夫婦、両親、子育て、その他の人間関係、身体、癒されていない過去、様々な出来事や問題に対して、逃げずに深く向き合うことになりました。

ある日、お互いの期待がすれ違い続けた末に起きた凄まじい夫婦喧嘩にて、夫に真の心の泣き叫びを本気で訴えました。

「真実が知りたい!」

「どうぜ誰もわかってくれない」と頑なに思い込んでいた「心の泣き叫び」を、勇気を振りしぼりって夫に開示できたことで楽になり、その上、夫が「真理」を追究することを後押ししてくれるようになり、益々「真実」へ向かうことになりました。

【交流分析・催眠療法・ゲシュタルト療法・禅・神道・奇跡講座・各種覚醒された方々の書物etc】

それからも、家族間の“特別な関係”の中での欲求、期待、不平不満、比較、恐れ、怒り、焦りが生じるたびに、外側をコントロールしたり、変えようとしても解決しないことを実感しました。

 

逆に、「自分の内側」に戻る(受け入れる)ことで、不思議と解決していく体験を重ねていきました。

個人の”こだわり”や“防衛””恐れ”の強度によって「内側」に戻しがたい(受け入れがたい)ものもありましたが、それでも、「内側」に戻れば戻るほど、癒され、楽になっていきました。

無意識的な習慣の「個人・自我の信念」が「恐れ」による「抵抗」で行きつ戻りつしながらも、「内側」に戻ることでガラガラと崩れ、散り散りになり、消えていきました。

この、「内側」に戻る=「受け入れる」とは、我慢して飲み込むとか、頭や理屈で抑え込むとかではなく(そうなりそうなときもありましたが)、「心の中にある正気さに渡す」ということです。

ここでは「心の中の正気さに渡す」という言葉で表現していますが、「奇跡講座」では「聖霊にゆだねる」、禅では「正見」「空にあずける」と同じです。

そうして、夫婦、子供、その他の人間関係が、自然で、自由で、優しい、心地よい関係へと変化していきました。

何が起こったのか?

 

最初は言語化できませんでしたが、内側に戻る=「受け入れる」ことは、「神意識」「全体性」「空」「わからさな」に渡し、ゆだねることであり、それにより「罪と恐れ」である「自我」の根拠のなさが見抜かれて、「自我」への興味が薄れていったことで、自由になっていったのです。

自我の解放=無罪性の受け入れにて、内側=「神意識」「全体性」「空」「わからなさ」の実感が深まったのです。

例えば、赦せるはずがないと思い込んでいた両親や弟と安らかな関係になり、さらには離婚した両親同士の奇跡のような和解を目撃、体験しました。

また、虚弱な身体が緩和したり、長い間患っていた病気が思いがけず快癒したり、土地や家やサロンが用意されたり、経済的に恵まれていきました。

これらの体験と平行して、最初は「身体」のケア中心だった仕事は、「心理と真理」の仕事へと促されていきました。

それでも、この世界での仕事として関わっている間は、意識は半二元的で、「自我」の改善を提案しつつ、「自我」が癒された末に「真我」にたどり着く、という提案をしていました。

閃きに従って始めた仕事でしたが、形の世界から本当の世界への橋渡しは手探り状態で、葛藤続きでした。

それでも、このすべての歩みにて、「自我」「罪」の実体のなさの体験を重ねていきました。

「わたしが自我の世界を作り、選択し続けている!」と認め、「神意識(全体性)」にゆだねました。

こうして、少しずつ、静かでゆるがない喜びに包まれました。

というか、包まれていたことに気づきました。

日常にて、ここで書ききることができない無数の微細で精密な奇跡、自我視点から全体視点への移行を体験していきました。

「自我」を「神意識(全体性)」に預ける度に、「苦しみ」は「感謝」にひっくり返りました。

常に静かな粛々とした喜びがあります。

中立。

ただ「光」に満ちています。

ただ「愛」だけがあります。

ただいまと帰ったのです。


・・・・・・

10年前に出会って、一度遠ざけた「奇跡講座」を再読し、自分に起きたことを再確認できたことも転機でした。

これまでの、心理療法、ヒプノセラピー、ゲシュタルト療法、禅、茶道、バイロンケイティ、ラマナ・マハルシ、パパジ、ムージさんたちの叡智のおかげでもあります。

また、出会いのすべて、出来事のすべてが「本当のわたし」への機会でした。

「源」を「YES」と受け入れるだけでした。

「神」にゆだね、「全体」にくつろぐだけでした。

・・・・・・


もう「全体・愛」の邪魔しません。
もう「全体・愛」を遠ざけません。


「愛」という「今ここ」に在ります。


ハレルヤ!
 


「奇跡のコース」の教義にこう述べられています。
『実在するものは脅かされない。
 実在しないものは存在しない。
 ここに神の平安がある。』
 ACIM 教義

 


日々、恩寵への祝福です。

【Humming】にて、

・個人セッション
・読み合わせと気づき
・オープンカフェ(シェア会)

​・第3月曜夜8時30分 ワーク会(ZOOM)

を提供しています。
いつでも、どなたでも、ぜひお気軽にご連絡お待ちしております。

どうぞよろしくお願いします。
最後までお読みいただきありがとうございました。

以前に、4巡した「奇跡のコース実践の記録メモ」のblogも書いています。
https://kuzira626.hatenablog.com/

・・・・・

【恐れのあらゆる側面は真実ではない。
なぜなら、それらは創造的レベルでは存在せず、したがって、まったく存在しないからである。
(テキスト 第1章 Ⅵ 5:1)】

・・・・・

【奇跡はあなたの聖性をとりなし、あなたの知覚を神聖にする。
物理的法則を超えたところにあなたを置くことにより、奇跡はあなたを天界の領域へと引き上げる。
そこでは、あなたはまさしく完全無欠である。
(テキスト 第1章 Ⅰ 32:2-4)】

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