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プロフィール

「全体」がある。

自我という「分離」の「思い込み(思考)」=“夢”に気づくと同時に「全体」が“夢”を見ていると気づく。

「気づき」後は、恩寵を賜る、おまけのような毎瞬間がある。

 

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茂藤かおり(もとう かおり)。
熊本市在住。


今は夫と2人暮らし。
長女(29才)長男(27才)はそれぞれ結婚し、それぞれ、韓国と、東京に在住。

日常を勤しむ、お茶を点てる(形はどうでもよくて、ただそのひととき)、気づきをわかち合う、ぶらぶら散策とか好きです。

日本交流分析学会会員
米国催眠士協会認定セラピスト
米国催眠療法協会認定ヒプノトレーナー
JAA認定 アロマインストラクター
TCカラー・マスターセラピスト
栄養医学指導師

これらを取得して、15年間ほど心理カウンセラーとして活動していました。

ですが、「全体性」を完全に認め、これまでの、個体性の向上、形の世界での問題解決を目的にした活動は、やめました。

"今ここ"にいます。

恩寵の中にいます。


物心ついたときから、生き辛く、苦しかったです。

不確かな世界で生きることに絶望していました。

外の世界に意識を向けることは苦しみでした。

行くことも、戻ることも出来ず、宙ぶらりんでした。

すべてから拒絶されている感覚があり、孤独でした。

でも、これが自我の働きだったのです。

“自我”の働きに気づき、見抜かれると、“今ここ”という至福が流れ込んできました。


これまでの体験のすべてが「全体」へと目覚める機会だったのです。

今、どこにも行く必要のない静かな喜びの中にいます。

・・・・・・

(気づきに至るまでのプロセスです)

幼少期から、争いの絶えない家、虚弱な身体、不自然で理不尽に見える世界に「絶望」し、「苦しみ」を感じて鬱々と過ごしてきました。

大人たちはいつも怒ったり、嘆いたり、競争したりしていて、「なんなの、この世界は」と早々に絶望していました。

 

心の中にある微かなときめきはいつも、外の世界にて打ち消されてしまいました。

とにかく、物質世界で生きることに違和感、居心地の悪さ、所在なさ、がありました。

「真実」に飢えていました。


小学1年生のとき、“「身体」が自分じゃない”という一瞥体験があり、それからは、よりはっきりと“見えないけど、確かなもの”を求めていました。

“心の奥のどこか別の領域”には、いつも清々しさがありましたが、それはすぐに、この絶望的な“形の世界”によってかき消されました。

その後、高校生のときに「聖書」の中のイエスキリストに出会いました。

それからは、イエスの存在が、心の唯一のよりどころでした。

イエスの存在から感じるゆるぎなさ、真摯さ、あたたかさ、清々しさ、そして懐かしくて深い安心の在り様だけが、わたしの希望の光でした。

ですが、イエスが指し示す三位一体の「神」の確信には至っていませんでした。

ただイエスの在り様に「神」を感じていました。

そのころはまだ、この感覚を咀嚼し、言葉に表現することはできませんでした、というかやってませんでした。

ただずっと、心の中の、この世界とは別の、言葉にならないものが“真実”なんだろうと感じているだけでした。

・・・

心に”真実”を感じていても、この世界においては絶望したままでした。

鬱々と日々を過ごし、辛うじて、某会社の会社員として過ごしていたある日、会社帰りに酷い台風の直撃に出くわし、死の恐怖と「身体」であることの不自由さに、大きな怒りがこみ上げました。


「もうこんな恐ろしくて狂っているところはマジ懲り懲りだ!心の中にある神に従って生きていく!」と”真実”への強い渇望と衝動が起きました。

それからは常に「神」を意識し、問いかけ、そして、イエスに感じている「内側の確かさ」を羅針盤にして生きるようになりました。

これらのコミットが、「わたし」=「全体性」だとは理解できていませんでした。

ただ、「今ここ」以外に在ることはできない、という直感に従っていました。

それでも、“外の世界”への期待が完全にないわけではなく、関わり方に戸惑っていて、清々しさの反面、居心地の悪さは続いていました。

その後、さらにこの世界の何もかもが虚しくなり、社会全体への違和感が増し、会社をやめ、当時お付き合いしていた不安定な関係の男性とも別れ、なんにもなくなりました。

また、その頃は、両親も離婚したり、金銭トラブルがあったりと、何もかもが最悪でした。

それでも、なぜかピンときた“伊勢神宮”での、夜通し祈るという神道のイベントに参加しました。

(この当時はまだ混乱していて、何か“する”ことに意義があるとか、“場所”に力がある、”この世界で幸せを見つかるかも”というふうに思っていました。)

伊勢神宮で、「神様、わたしが進む道を教えてください」と必死に祈りました。

それ以外に道はありませんでした。

それから数か月後に、夫と出会いました。
そして、なぜか「この人と結婚する」と直感しました。

何度か会うようになった頃、住んでいたアパートの部屋で不思議なボヤが起き、その部屋に住めなくなりました。たまたま掛け捨ての火災保険に入っていて保証がおり、また、ボヤ騒動を助けてくれた夫と住む話になり、あれよという間に結婚に至りました。

娘と息子が生まれました。

日々、空々しさと孤独の中、それでもこの世界で生きなきゃ、幸せを見つけなきゃ、というジレンマと、この世界から拒絶されているような感覚などは、「家族」が出来たことで薄れました。

ですが、ここからが、“真実”へ道の本番だったのです。

家族、夫婦、これまで出会ったすべての人たち、身体、様々な出来事、ハプニングは、「人間とは」?「人との関わりとは?」「身体とは?」「真実とは?」「愛とは?」「神とは?」「ゆるしとは?」「癒しとは?」に気づくためのものでした。

ある日、凄まじい夫婦喧嘩の末に、夫に心の泣き叫びを訴えました。

「どうぜ誰もわかってくれない」と頑なに思い込んでいた「心の泣き叫び」を夫に開示できたことで、心が楽になり、夫が「真理」を追究することを後押ししてくれるようになり、益々「真実」へ向かいました。

家族のような密で“特別な関係”の中での欲求、期待、不平不満、怒り、違い、恐れ、が生じるたびに、外側をコントロールしても解決せず、逆に、自分の内側に戻って「欲求」等を見つめ、見直すことで解決していく体験と気づきを重ねていきました。

“自分のこだわり”や“防衛”の強度によって「今ここ」に戻しがたいものもありましたが、それでも、内側に戻れば戻るほど、癒され、楽になっていきました。

無意識的な習慣の「自我の信念」が、「抵抗」で行きつ戻りつしながらも、「今」に戻ることでガラガラと崩れ、散り散りになり、「静けさ」へと消えていきました。

自我の「反応」をわきに置いた、心静かなままだと、家族、夫婦、子供、さまざまな人間関係が、自然で、自由で、優しい、心地よい関係へと変化していきました。

こうして「自我」の構造は、少しずつ見抜かれていきました。


「自我」へのリアリティが薄れていきました。


「自我」が演出している「時間」の概念から自由になっていきました。

そうすると同時に、「全体(神)」への信頼が育まれていきました。

例として、絶対にゆるせなくて修復不可能だと思い込んでいた信念がゆるみ、両親や弟と和解が起き、安らかな関係になったり、離婚した両親同士の奇跡のような和解を目撃、体験しました。

また、身体の虚弱さが緩和されたり、長い間患っていた病気が思いがけず快癒したり、住む場所やサロンが用意されたり、経済的に恵まれていきました。

これらの気づきを元に「心理と真理」の仕事へと促されていきました。

それでもまだ、半二元的で、「自我」と「真我」への確信を行ったり来たりしていていましが・・・。

閃きに従って始めた仕事にも常に葛藤がありました。

こうして、心の中でくすぶっている「自我」は、セラピーの仕事によってもどんどん噴出しました。

これらの「自我の働き」に、正直に、コツコツ、淡々と、気づき続けました。

​こうして、「自我」への注視がゆるまっていきました。

わたしはこの世界や大人たちの「被害者」なんだ、と思い込んでいましたが、「わたしが自我の世界を選択し続けている!」と認めました。

それは、すべてを完全に「全体(神)」に明け渡すということでした。

「被害者」、「加害者」というマインドを明け渡すと、「全体性」の静かでゆるがない喜びに包まれました。

というか、包まれていたことに気づきました。

こうして、日常にて、ここで書ききることができない無数の微細で精密な奇跡を体験していきました。

「自我の分離の働き」を見抜いていくほどに、「苦しみ」は遠のき、「感謝」で満たされました。

常にしーーんと安らかで静かなままの「今ここ」に居ます。

「五感」での反応が「自我的」なものではなくなり、「形」への関心が薄れていきました。

物質世界の出来事とは「夢」なんだと。

夜見る夢よりも、”固い”夢でしかないと。

そうして、凪のまま、粛々とした喜びに満たされています。

すべてが中立。

ただ「光」に満ちています。

ただ「愛」だけがあります。

「全体(神)」への帰結です。


・・・・・・

10年前に出会っていた「奇跡講座」を再読したことで、自分に起こっていることを再認識できました。

「奇跡講座」は「常世」という「実相」を実証してます。

イエスの気づきと、イエスの中に見ていたものを自分の中に確信しました。

すべての人、世界も、ただ、“ひとつ”でした。

シンプルに、純粋に、「源」を「YES」と受け入れるだけでした。

「神」にゆだね、「全体」にくつろぐ。

・・・・・・


自我の夢を置いたら、「全体・愛」だけがあります。


もう「全体・愛」の邪魔しません。
もう「全体・愛」を遠ざけません。


「愛」という「今ここ」に在ります。


ハレルヤ!
 


「奇跡のコース」の教義にこう述べられています。
『実在するものは脅かされない。
 実在しないものは存在しない。
 ここに神の平安がある。』
 ACIM 教義

 


日々、恩寵への祝福です。

【Humming】にて、

・個人セッション
・読み合わせと気づき
・オープンカフェ(シェア会)

​・第3月曜夜8時30分 ワーク会(ZOOM)

を提供しています。
いつでも、どなたでも、ぜひお気軽にご連絡お待ちしております。

どうぞよろしくお願いします。
最後までお読みいただきありがとうございました。

以前に、4巡した「奇跡のコース実践の記録メモ」のblogも書いています。
https://kuzira626.hatenablog.com/

・・・・・

【恐れのあらゆる側面は真実ではない。
なぜなら、それらは創造的レベルでは存在せず、したがって、まったく存在しないからである。
(テキスト 第1章 Ⅵ 5:1)】

・・・・・

【奇跡はあなたの聖性をとりなし、あなたの知覚を神聖にする。
物理的法則を超えたところにあなたを置くことにより、奇跡はあなたを天界の領域へと引き上げる。
そこでは、あなたはまさしく完全無欠である。
(テキスト 第1章 Ⅰ 32:2-4)】

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