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プロフィール

“全体(愛)”を生きている。

「思い込み(思考)」から目覚めると「全体(愛)」だけがあることに気づく。

「全体(愛)」がわたしたちの本質。

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茂藤かおり(もとう かおり)と申します。

この世的な紹介をしますと、熊本市在住。夫と2人暮らし。

長女は結婚し韓国在住、長男は結婚し東京在住です。

お茶を点てたり(形はどうでもよくて、そのひととき)、人と気づきをわかち合うこととかが好きです。

以前は、

米国催眠療法協会認定ヒプノトレーナー

米国催眠士協会認定ヒプノセラピスト

日本交流分析学会会員

JAA認定 アロマインストラクター

TCカラー・マスターセラピスト

栄養医学指導師

ゲシュタルト療法会員

などを、習得し、学びを続け、15年ほどは心理カウンセラーとして活動していました。

ですが、肩書き、形によって活動することに必要を感じられなくなり、形での活動は止めました。

今は、”今ここ”という「全体性・愛」にゆだねています。

 

その延長の表現をしています。

​そのとき、そのとき、「今ここ」の毎瞬間の、「一期一会」にいます。

振り返ると、これまでのすべてが「夢」から「愛」へと目覚める機会でした。

“自我”の世界が苦しかったのですが、それに合わせないとこの世界で生きていけないと思い込んでいました。

それこそが”自我”の働きでした。

その”自我”の働きから離れると、わたしたちは、”今”という、至福、全体、愛、完全、無限、完ぺき、永遠、だったのです。

・・・・・・

(気づきに至るまでのプロセスです)

幼少期から、争いの絶えない家、虚弱な身体、不自然で理不尽に見える世界に「絶望」し、「苦しみ」を感じて鬱々と過ごしてきました。

大人たちはいつも怒ったり、嘆いたり、競争したりしていて、「なんなの、この世界」と早々に絶望していました。

とにかく、物質世界で生きることへの違和感、居心地の悪さがありました。

「真実」に飢えていました。


小学1年生のとき、“「身体」が自分じゃない”という一瞥体験があり、それからは、よりはっきりと“見えないけど確かなもの”に、よりどころを求めるようになっていました。


“心の奥の別の領域”には、いつも清々しさがありましたが、それはすぐに絶望的な”形の世界”の“現実”によってかき消されていました。

その後、高校のときに「聖書」の中のイエスキリストに出会いました。

それからは、イエスの存在が唯一の心の友であり、よりどころでした。

イエスの、ゆるぎない真摯さ、あたたかさ、清々しい在り様だけが、わたしの希望の光でした。

ですが、そのころはまだ、イエスが指している三位一体の「神」は確信できていませんでした。

イエスの在り様に「神」を感じていましたが、それを自分なりに咀嚼し確信し、言葉にするのは不可能だと思い込んでいました。


絶望のままに鬱々と日々を過ごし、辛うじて、某会社の会社員として過ごしていたある日、酷い台風の直撃に会社帰りに出くわし、死の恐怖と「身体」であることの不自由さに大きな怒りがこみ上げました。


「もうこんな恐ろしくて狂っているところには居たくない!真実が知りたい、心の中にあるこの感覚の先にある神に従って生きていく!」と”真実”への強い渇望と衝動が起きました。

それからは常に「神」を意識し、問いかけながら、そして、イエスに感じている「内側の確かさ」を羅針盤にして生きるようになりました。

これらのことが「わたし」=「全体性」という確信は、この時はまだありませんでした。だけど「今ここ」以外に在ることはできない、という直感に従い、それにゆだねていました。

ただ、それでも、「現実」への絶望も居座っていたので、清々しさと絶望が混在していました。

その後しばらくして、さらにこの世界の何もかもが虚しくなり、社会全体に対しての違和感が強くなり、会社をやめ、当時お付き合いしていた不安定な関係の男性とも別れ、なんにもなくなりました。

また、その頃、両親も離婚したり、金銭トラブルがあったりと、何もかもが最悪でした。

それでも、なぜかピンときた“伊勢神宮”での、夜通し祈るという神道のイベントに参加しました。

(この当時はまだ混乱していて、何かすることに意義があるとか、場所に力があるというふうに、“形の世界”にも期待していました。)

「神様、わたしが進む道を教えてください」と必死に神に祈りました。

届いているか、とかわかりませんが、これ以外の道はありませんでした。

そしたら、それから数か月後に、夫と出会いました。そして、なぜか「この人と結婚する」とひらめきました。


何度か会うようになった頃、住んでいたアパートの部屋で不思議なボヤが起き、その部屋に住めなくなりました。たまたま掛け捨ての火災保険に入っていて保証がおり、また、ボヤ騒動を助けてくれた夫と住む話になり、あれよという間に結婚に至りました。

娘と息子が生まれました。

こうして、家族との出会いと出来事の中で、無数の奇跡を体験することになりました。

すべて、「愛(実相世界)」へと導かれ、目覚めるためのプロセス。

家族関係、夫婦関係、また、出会ったすべての人との関係は、「ゆるしとは」?「愛とは?」「神とは?」という気づきをもたらしました。


日々、“特別な関係”の中で出くわす欲求や期待や不平不満、怒り、違い、恐れ、に気づき、その「思考」を「今ここ」に戻しました。


関係性の中で、“自分のこだわり”“防衛”の「思考」の強度によって、「今ここ」に戻しがたいものも多かったのですが、少しずつ「自我」という「思考」が静まり、それと入れ替わりに「愛」が露わになっていきました。


握りしめ、習慣化していた「思考」「信念」「概念」は、抵抗で行きつ戻りつしながらも、ガラガラと崩れていき、散り散りになり、静けさへと消えていきました。

自我という「反応」が退き、心静かになることで、家族、夫婦、子供、その他の人間関係も、自然で、自由で、優しい、心地よい関係へと変化しました。

「神」への信頼が深まり、育まれ、一致していき、「神」と共にあるようになりました。

根拠など必要のない「神」という「確かさ」を認識し、確信しました。

同時に、「自我」の構造がハッキリ整理できていきました。


これらの気づきでの体験の例としては、絶対にゆるせない、修復不可能だと思っていた両親や弟と和解が起きて、安らかな関係になったり、離婚した両親同士の間にも、奇跡のような和解が起きました。

また、病気が思いがけず快癒したり、住む場所やサロンが用意されたり、経済的に恵まれていきました。

そして、これらの気づきを元に「心理と真理」の仕事へと促されていきました。

それでもまだ、半二元的であり、形の世界に力を見たがっていて、「自我」の欲求、願望と「真我」への確信を行ったり来たりして、「思考」に囚われ、それが葛藤として現れました。

深いところからの「恐れ」がどんどん上がってきました。

「恐れ」の底までいき、見ていくと、「実体」がないことを、日常のさまざまな場面で体験しました。

「感謝」で満たされることが多くなっていきました。

「愛」が深まり、広がっていきました。

「正気」さに肚落ちし、そこにくつろぎました。

「神」への信頼に帰結していきました。

・・・・・・

また、10年前に出会っていた「奇跡講座」を再開し、自分に何が起こっていたのかをおさらいできました。

わたしにとって、「奇跡講座」は「実証」の本です。

「神」を完璧に確信させてくれました。

わたしたちの本質は、「愛」だと確信させてくれました。

イエスの中に見ていたものを自分の中に確信したのです。

シンプルに、純粋に、「源」を「YES」と受け入れるだけ。

「神」にゆだね、「全体」としてくつろぐ。

現実世界はそれに呼応し、愛を露わにしてくれます。


・・・・・・

自我と夢を置いたら、そこには「愛」がありました。

もう「愛」の邪魔しません。
もう「愛」を遠ざけません。

「愛」という「今ここ」に在ります。


ハレルヤ!


・・・・・・

「奇跡のコース」の教義にこう述べられています。
『実在するものは脅かされない。
 実在しないものは存在しない。
 ここに神の平安がある。』
 ACIM 教義

 


日々、祝福と感謝です。

【Humming】にて、

・個人セッション
・読み合わせと気づき
・オープンカフェ&シェア会

​・月曜夜9時 瞑想会(ZOOM)

を提供しています。
いつでも、どなたでも、ぜひお気軽にご連絡お待ちしております。

どうぞよろしくお願いします。
最後までお読みいただきありがとうございました。

以前に、4巡した「奇跡のコース実践の記録メモ」のblogも書いています。
https://kuzira626.hatenablog.com/

・・・・・

【恐れのあらゆる側面は真実ではない。
なぜなら、それらは創造的レベルでは存在せず、したがって、まったく存在しないからである。
(テキスト 第1章 Ⅵ 5:1)】

・・・・・

【奇跡はあなたの聖性をとりなし、あなたの知覚を神聖にする。
物理的法則を超えたところにあなたを置くことにより、奇跡はあなたを天界の領域へと引き上げる。
そこでは、あなたはまさしく完全無欠である。
(テキスト 第1章 Ⅰ 32:2-4)】

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