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プロフィール

探していたのは「ピュアなわたし」。

「気づき」、恩寵に満ちる。

静寂・生命・よろこびに満ちる。

 

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茂藤かおり(もとうかおり)

熊本市在住

日常、暮らしが趣味。

恩寵、豊かさ、有り難さを味わう。


日本交流分析学会会員
米国催眠士協会認定セラピスト
米国催眠療法協会認定ヒプノトレーナー
JAA認定 アロマインストラクター
TCカラー・マスターセラピスト
栄養医学指導師

これらを取得し、15年間、心理カウンセラーとして活動をしていました。


「個人」や「形の世界」の問題や向上は、全体性の自覚で解決すると気づいた今は、この気づきを、そのときどきの出会いの形の中で共有しています。

今では、夢だったと感じていますが、物心ついたときから、生き辛く、苦しさの中でした。

不確かな世界に絶望していました。

外の世界に意識を向けることが苦痛でした。

行きも戻りもできない感じで、宙ぶらりんでした。

すべてから拒絶されている感覚があり、孤独でした。

・・

でも、これが自我の働きだったのです。

本当は実態などない“自我”の働きが見抜かれると、“今ここ”という至福が流れ込んできました。


これまでの体験のすべてが「全体」へと目覚める機会だったのです。

探す必要のない”今ここ”の静かな喜びだけがあったのです。

・・・・・・

(気づきに至るまでのプロセス。)

幼少期から、争いの絶えない家族、虚弱な身体、不自然で理不尽に見える世界に「絶望」し、「苦しみ」を感じて鬱々と過ごしてきました。

まわりの大人たちはいつも怒ったり、嘆き怯えたり、競争し、諍いを起こしてばかりで、「なんなの、この世界は」と早々に絶望していました。

心の中の微かなときめきも、外の世界、不安定な大人たちに感化され、すぐに打ち消されていました。

とにかく、この物質世界で生きることに違和感、居心地の悪さ、所在なさ、がありました。

「真実」に飢えていました。


小学1年生のとき、“「身体」が自分じゃない”という一瞥体験があり、それからは、よりはっきりと“見えないけど、確かなもの”を求めていました。

“心の奥のどこか別の領域”にはいつも清々しさがありましたが、それはすぐにこの絶望的な“形の世界”によってかき消されてしまっていました。

その後、高校生のときに「聖書」の中のイエスキリストに出会いました。

それからは、イエスの存在が、心の唯一のよりどころでした。

イエスの存在から感じるゆるぎなさ、真摯さ、あたたかさ、清々しさ、そして懐かしくて深い安心の在り様だけが、希望の光でした。

ですが、イエスが指し示す三位一体の「神」の確信には至っていませんでした。

ただイエスの在り様に「そこに戻りたい」と感じていました。


そのころはまだ、この感覚を言葉で表現できなかったし、できないと思い込んでいました。

ただ、この物質世界とは別のところに“真実”があるんだろうなと漠然と感じていました。

・・・

心に”真実”を感じていても、この世界においては絶望したままでどう関わっていいのか混乱したままでした。

鬱々と日々を過ごし、辛うじて、某会社の会社員として過ごしていたある日、会社帰りに酷い台風の直撃に出くわし、死の恐怖と「身体」であることの不自由さに、大きな怒りがこみ上げました。

「もうこんな恐ろしくて狂っているところはマジ懲り懲り!真実を知りたい!心の中にある神(?)に従って生きていく!」と”真実”に向く決心をしました。

それからは常に自分の「内側」に向き、意識し、問いかけ、そして、イエスに感じている「確かさ」と共鳴している「自分の内側」を羅針盤にして生きるようになりました。

このコミットが、「わたしの内側」=「全体性」だとは気づけなくて、「ただそうする以外できない」という素直な直感に従っていました。

※素直な直感=思考に乗らない


それでも、まだ、物質世界に期待と執着があり、裁きもあり、葛藤もありで、完全に思考が自我だと見抜いているわけではなく、「内側」の清々しい部分と物質世界を行き来し、居心地の悪さは続いていました。


その後、さらに何もかもが虚しくなり、社会全体への違和感が増し、会社をやめ、当時お付き合いしていた不安定な関係の男性とも別れ、なんにもなくなりました。

また、その頃は、両親が離婚したり、金銭トラブルがあったりと、何もかもが最悪でした。

それでも、なぜかピンときた“伊勢神宮”での、夜通し祈るという神道のイベントに参加しました。

(この当時はまだ混乱していて、何か“する”ことに意義があるとか、“場所”に力がある、”この世界を変えられる”というふうに思っていました。)

伊勢神宮で、「神様、本当の道を教えてください」と必死に祈りました。


それから数か月後に、夫と出会いました。
そして、なぜか「この人と結婚する」と直感しました。

何度か会うようになった頃、住んでいたアパートの部屋で不思議なボヤが起き、その部屋に住めなくなりました。たまたま掛け捨ての火災保険に入っていて保証がおり、また、ボヤ騒動を助けてくれた夫と住む話になり、あれよという間に結婚に至りました。

娘と息子が生まれました。


「家族」ができたことで、孤独やむなしさ、焦りなどは緩和しました。

ですが、ここからが、“真実”の道への本番だったのです。

夫婦、両親、子育て、人間関係の全般、身体、癒されていない過去の記憶、社会への嫌悪感、そしてなによりもこれらに対する自分自身のあり方に、逃げずに深く向き合うことになりました。


ある日、お互いを期待し過ぎて、すれ違い続けた末に起きた凄まじい夫婦喧嘩のときに、わたしは夫にはじめて正直に、本当に思っていることを叫びました。

「真実が知りたい!」「人はなぜ生きているのか知りたい!」

「どうぜ誰もわかってくれない」と頑なに思い込んでいた「心の泣き叫び」を、勇気を振り絞って夫に開示できた瞬間、楽になり、その上、夫が後押ししてくれるようになり、益々「真実」へ向かうことになりました。


その後も、家族としての“特別性”の欲求、期待、不平不満、比較、恐れ、怒り、焦りが生じるたびに、外側をコントロールしたり、変えようとしても解決しないことを実感しました。


逆に、「自分の内側」に戻る=「事実のまんま受け入れる」=「思考に乗っからない」ことで、解決していく体験を重ねていきました。


個人としての防衛、恐れ、こだわりの強さによっては「思考」に乗っかり「内側」に戻しがたいものもありましたが、それでも、「内側」に戻れば、癒され、楽になっていきました。


無意識的な習慣の自我は、分離と罪意識と恐れの反応=「思考」をもって「抵抗」します。

こうして、自我と気づきの間を行きつ戻りつしながら、内容によっては時間がかかりましたが、「内側に戻る」=「受け入れる」ことで、そのうち自我の反応は薄れて、自己防衛がゆるみ、散り散りになり、消えていきました。


自分自身、夫婦、子供、人間関係、社会への感じ方、関わりが、嬉しくて自然で自由で優しい、心地よいものへと変わっていきました。

「自我」の機能を知り、理解する。

 

握りしめている勘違いの分離と罪意識ゆえの愛を求める泣き叫びと、その反応である思考と、その根拠のなさが見抜かれて、「自我」の関心に乗ることがなくなり、自由になっていったのです。

同時に、「神意識」「全体性」「空」「わからさな」と共鳴していきました。

そうしていると、赦せるはずがないと思い込んでいた両親や弟との和解や、さらには離婚した両親同士の和解を体験したりと、ますます心が軽くなり、楽になっていきました。

また、虚弱な身体が緩和したり、長い間患っていた病気が思いがけず快癒したり、土地や家やサロンが用意されたり、経済的に恵まれていきました。

これらの気づきと体験と平行して、最初は身体ケア中心だった仕事は、「心理と真理」の仕事へと促されていきました。

最初は、仕事は半二元的でした。

「自我」の改善の提案をし「自我」を癒して「真我」にたどり着く、という「引き寄せのようなアプローチ」を提案をしていました。

閃きに促されて始めた仕事でしたが、手探り状態で、葛藤続きでした。

それでも、これらの仕事の経験によって無意識の深いところの罪悪感も暴かれていきました。

どこかで「自我」との同一化を本当に受け入れていおらず、「自我」は外にあり、その退治をしていたのですが、わたし自身が分離と罪悪を作ってる張本人なんだと本気で認めることとなりました。

自我退治は自我を強化するだけであり、これこそが自我の働きだったのです。

「わたしが原因であり、わたしの選択なんだ!」

「透明な静寂さがすべてなんだ!」

自我はただ看過するだけ。

​そして揺らぐことのない喜びと一致しました。

というか、ずっとこれだけがあったのです。

こうして、日常にて、ここで書ききれない無数の微細で精密な奇跡をいくつも体験して、全体性の確信に至りました。

中立。

透明。

​静寂。

ただ「光」に満ちています。

ただ「愛」だけがあります。

ただいまと帰りました。

・・・・・・​

10年前に出会って一度遠ざけた「奇跡講座」の再読は、自分に起きたことを余すことなく裏付けてくれました。


また、心理療法、ヒプノセラピー、ゲシュタルト療法、禅、茶道、バイロンケイティ、ラマナ・マハルシ、パパジ、ムージさんたちの叡智に支えられていきました。

そして、これまでのすべての出会いと出来事が「本当のピュアなわたし」への機会でした。

・・・・・・


もう「全体・愛」の邪魔しません。
もう「全体・愛」を遠ざけません。


「愛」という「今ここ」に在ります。

ハレルヤ!


「奇跡のコース」の教義にこう述べられています。


『実在するものは脅かされない。
 実在しないものは存在しない。
 ここに神の平安がある。』
 ACIM 教義


日々、恩寵と祝福です。

【Humming】にて、

・個人セッション
・本の読み合わせ

・ヒプノセラピスト養成
・オープンカフェ(シェア&ワーク会)

​・ワーク会(ZOOM)不定期

を提供しています。
いつでも、どなたでも、ぜひお気軽にご連絡お待ちしております。

どうぞよろしくお願いします。
最後までお読みいただきありがとうございました。

以前に、4巡した「奇跡のコース実践の記録メモ」のblogも書いています。
https://kuzira626.hatenablog.com/

・・・・・

【恐れのあらゆる側面は真実ではない。
なぜなら、それらは創造的レベルでは存在せず、したがって、まったく存在しないからである。
(テキスト 第1章 Ⅵ 5:1)】

・・・・・

【奇跡はあなたの聖性をとりなし、あなたの知覚を神聖にする。
物理的法則を超えたところにあなたを置くことにより、奇跡はあなたを天界の領域へと引き上げる。
そこでは、あなたはまさしく完全無欠である。
(テキスト 第1章 Ⅰ 32:2-4)】

セッション

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Humming
ネーミングの由来

Hummingちゃんは、わたしたちの「無垢性」カマノレイコさんに書いていただきました。

プロフィール

茂藤かおり(もとう かおり)

熊本市在住。
今は夫と2人暮らし。

​ときどき、色んな人と関わる。

お問い合わせ

090-1191-5554

kuzira826@yahoo.co.jp

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